English |『正教時報平成二十三年六月二十日発行(第一四四九号)

表紙の写真《神品致命者ミトロファン最初の中国人司祭
(記憶日6月24日/6月11日)》

by the hand of Nana Quparadze

神品致命者・聖ミトロファン(中国名:楊 吉(Yang Ji)は1856 年1月17日に北京で生まれたと伝えられています。彼は中国人正教徒の家庭に育ち、ロシア教会の北京ミッションと近い関係にありました。ミトロファンの父は彼が幼い時に亡くなり、祖母と母によって育てられました。ミトロファンは小さい時から静かで考え深い子供であったようです。常に平静を保ち、罵倒されても怒りませんでした。

1864 年、中国宣教団を指導するために再度赴任した際、掌院パラディイは彼の教師に「ミトロファンが司祭になるべく育てよ」と託して本国に帰りました。掌院パラディイの後任として、掌院フラヴィアンが1878 年にやってきます。彼もミトロファンには司祭になってもらいたいと強く願い、司祭になるよう勧めました。ミトロファンは「自分は全くその職に相応しい者ではありません」と辞退し続けていましたが、ついに司祭叙聖を受け入れました。

1882 年(明治15年)、日本において全国公会が開催され中国代表団として、掌院フラヴィアンと共に来日します。その時に当時のニコライ主教(亜使徒聖ニコライ)にも会いました。来日中の6月 20日、ミトロファンはニコライ主教に輔祭として叙聖され、同月29日に中国人として初の司祭として叙聖されました。その叙聖式は主教館二階の十字架聖堂で行われたと伝えられています。

その後15年間、ミトロファン神父は掌院フラヴィアンの中国語翻訳事業を支え、たとえ同胞の中国人から馬鹿にされても司祭職を全うしていましたが、ついに精神的に疲れ、北京郊外で3年間過ごします。

1900 年、6月1日、義和団事件が起こります。これは外国勢力を武力で排除しようとする反乱でした。北京ミッションは放火され、多くの避難民が北京郊外のミトロファン神父の家に逃げ込んできました。この逃げ込んだ多くの人々はかつてミトロファンを罵っていた人々ですがミトロファン神父は彼らを追い返すことはしませんでした。ついに義和団の手はミトロファン神父の住まいにまで伸びます。そこで多くのクリスチャンたちが拷問に逢い、命を落としました。ミトロファン神父の妻・タティアナ、3人の子供、イサイヤ、セルギイ神父、イオアンらも主を棄てることを拒み、そこで殺され、ミトロファン神父も天国に凱旋しました。6月11日のことでした。

1903 年に修道司祭アヴラアミイが222 人の死者と共にミトロファン神父の遺体を発見します。222 人の遺体は不朽体として記念聖堂である「全ての聖致命者聖堂」の宝座の下に納められました。